このごろ気になること
冷暖房設備が完備された、私の部屋で温度調節をしながら常に快適温度を要求している身勝手な日常生活、自分で設定した室温であるのに、暑いとか、冷え過ぎるとか勝手なことをいっては、クーラーを困らせている。
外気を壁で遮断し部屋は要求通りの適温であるが、私に満足感はないし、ましてや私の涼しさの概念からは、かけはなれている。クーラーなど、なかった頃に育った私にとって涼しさとは、木陰のここちよさなのだ。田舎に住んでいたころ、カンカン照りの中での木陰の涼しさが今はなつかしい。そこには、そよ風が頬をなぞり木陰から一歩でると、ジリジリと肌を焼くギラギラとした太陽が輝いている。熱射にさらされたその場所と木陰には仕切りも壁もない、強い陽ざしを遮る枝葉が風を優しいそよ風に変え、ここちよい涼しさを運んできてくれる。過ぎ去った映像は美しい記憶として残り田舎で過ごした子供の頃がなつかしい。
山野をかけめぐり、腹ペコになって畑のトマトをもいで食べた、木に登って見渡す景色は広くて遠くて、高く、大将になった気分になれた。走馬灯のように、かけめぐるあの頃の生活は、物不足ではあったが、すべてが自然と同化していて、かけがえのない少年時代の回想録となって鮮やかに蘇る。貧乏だと思っていた過ぎし日の数々をふりかえれば、自然の恵みに囲まれ、楽しい思い出がいっぱいつまった、よき我がふるさとでした。
子供のころ日常のささいなことにも、心動かし喜怒哀楽があったのに、まさか齢のせいではあるまいし、感動の度合いが薄すれていくのが気にかかる。物あまりと成熟社会での日常生活は感度が鈍り感激など少なくなるのであろうかそれとも生まれながらの貧乏性からくる私の体質なのか、空腹時の食べ物のおいしさ、満腹時の高級料理への申し訳なさ、充足された生活に慣れきっていく自分がみえる。