第四話 杖の代わりに自転車通学
自転車に乗る中学生の米澤房朝さん(前列右から2人目)。左端は弟義一さん
昭和33(1958)年、村立合志中の入学祝いで姉の義父松本勇さんから自転車をいただきました。
足の障害を理由に自転車通学が認められて、行動範囲がぐんと広くなりました。近、遠距離を問わず走り回りました。自転車に乗っている時だけ足の不自由さを忘れることができたのです。
しかし、どもりがひどくなりました。友達と話すのも怖くなり、一人になることが多くなりました。
先生にうそをついて早退し、家の近くの群山に登り、頂上から遠くを眺めては自転車で行きました。農繁期には家が忙しいとうそをついて農繁休暇をとり、学校をサボることも覚えました。
勉強はせず、優秀な姉2人と比べて成績が悪かった。中学では試験日は昼から休みで勉強となっていましたが、一切しませんでした。ただ、数学だけは勉強しなくても理解できました。成績もいい方でした。
自転車に乗って地金を集めたり、山に入ってドングリや葉にくるまった虫を集めて釣具屋に売りに行ったりして、小遣いを稼ぎました。
家では鶏を放し飼いしていました。産んだ卵を雑貨店に持っていくと商品と交換してくれました。当時、卵は栄養価が高く貴重品だったのです。また羊も飼っていました。年に2回羊の毛を刈ると、仲買人が買いに来ました。毛糸と交換し、編み物の上手な母に渡しました。
そのころ、母は自宅近くにできたゴルフ場に勤めていました。高校に上がるころには、姉からの仕送りもあって借金に頼ることもなくなり、生活は安定したようです。
余談になりますが、父親代わりに面倒をみていた6歳下の弟義一だけには苦労はさせたくなかった。母もそう思っていたようです。小学生になった弟はかわいがられて育ちました。そのせいか、朗らかな性格です。きょうだい4人の中で一人、性格が違います。
「もはや戦後ではない」と経済白書が宣言したのが昭和31年。弟は日本の経済成長とともに成長しました。このタイトルの「苦労は買うてでもせよ」とは無縁で、「買うてでもせな、いかんのかなあ~」などと言います。弟をうらやましくさえ思います。