第五話 ほめられ少しずつ自信に
鎮西高校時代の米澤房朝さん(右端)。2年生の時、福岡市への1日旅行で
吃音[きつおん]で中学時代は人と話すことが怖く、学校へ行くのが嫌で暗い毎日でした。卒業したら、就職しようと思っていました。
ところが、障がい者との理由で就職が決まりません。困っていたら、姉の義父から「うちの息子と一緒に鎮西に行け」と言われ、助けていただきました。願書は出しておらず、鎮西の傑物、竹下丈夫先生に頼んで入れてもらったのでしょう。
鎮西には立派な先生方がたくさんおられ、3年間楽しく過ごすことができました。担任は萩尾孝之先生、筋金入りの凛[りん]とした方でした。1年A組でいきなり学級委員長、2年と3年では生徒会の役員などをし、少しずつ自信を取り戻しました。
一番嫌いだった体育の授業は見学と決めていました。ところが、先生は私を強引に引きずって鉄棒にぶら下がる練習をさせて、「おまえは鉄棒が上手」と褒めてくれました。確かに足は不自由でしたが、腕は人一倍丈夫。先生は私のできることを見つけて自信をつけさせてくれました。
体育のメニューは他の人たちと違って毎回鉄棒の練習でした。忘れもしない先生の名前は金子銀七郎先生。それからは体育も好きになりました。他にも魅力ある個性的な先生方がおられました。
在学当時、スポーツが盛んで、同級生には県大会、全国大会で活躍するスター選手が何人もいました。いつも新聞紙上に名前が出て、別世界の人と思っていたら、私と机を並べる、同じ勉強嫌いのクラスメートでした。
悪ごろもいました、彼たちはいたって単純、優しく接してくれました。足に障害があり、どもりもあり、弱者の見本のようなものです。強気をくじき弱きを助ける。勇ましい役を演じる悪ごろたちにとって、私は最も適役でした。
鎮西で学んで最もよかったことは祈りの習慣がついたこと。毎日手を合わせ、合唱の指導を受けました。鎮西の合掌精神は今も心の支えになっています。
「みほとけの みめぐみにより、今日の一日を人としての過なく 互いに睦み 互いに譲り 己が業を励みて、世の文化につとめ 社会に光を捧げむ、御仏の加祐を給え」