第六話 「やっと就職住み込みへ」

第六話 やっと就職住み込みへ

「大宝堂眼鏡舗」で住み込みで働いていた、22歳のころの米澤房朝さん

昭和37(1962)年春、鎮西高校3年の同級生は皆、進路が決まり卒業式を待つばかりでした。しかし、私だけが就職先が決まりません。中卒時も障害を理由に就職できなかっただけに焦りました。
 そんな時、店舗数、売上高とも当時日本一を目指していた名古屋の「キクチメガネ」の森文雄社長=熊本市出身=が求人のために来校され、「メガネ屋になれ」と熱弁を振るわれました。まだメガネをかけることが珍しく、かつ嫌がられていた時代です。店はほとんどが個人経営でした。
 「(店を)会社組織にしてチェーン展開し、メガネ学校をつくって人材を育成、ビジョンケアー(視力保護)をベースに眼鏡業界の発展に尽くしたい。メガネの仕事を通じて社会に奉仕すべし」
 若さもあったのでしょう。森社長のげきに酔いしれ、日本一のメガネ屋になりたいと思いました。就職希望の同級生3人とともに内定をいただきました。
 ところが、希望に胸を膨らませて名古屋に出向くと、役員面接で内定を取り消されました。足の障害と吃音[きつおん]で接客業には向かないと判断されたようです。帰りの列車では涙が止まりませんでした。
 森社長はすまないと思われたのでしょう。森社長の紹介と鎮西高校の布田健策先生のご好意で、布田先生の親戚筋にあたる熊本市上通町の「大宝堂眼鏡舗(現メガネの大宝堂)」に住み込みで就職することになりました。
 成績優秀な佐藤蕃[しげる]君が先に決まっていて、補助員としての採用でした。
 クビにならないよう一生懸命働きました。ご家族は優しい方ばかり。食事も朝昼晩おいしくいただけるし、部屋代も食事代もなし。いいことずくめの住み込みでした。
 私の役目は、接客は無理だろうとのことで開店前の準備と閉店後の整理整頓でした。
 メガネの仕事はご来店していただくための準備、お買い上げ後のチェックが重要です。店の人たちが出社する前に開店準備をして、閉店後、みなさんが退社した後の残務整理です。住み込みのため時間を気にすることなく仕事に励むことができ、結果として同僚より早く仕事全般を覚えました。