第三十四話 「同志稲葉くんが残した学校」

第三十四話 同志稲葉君が残した学校

平成18年10月1日、後期の卒業生対する稲葉君の式辞の一部です

平成20(2008)年1月9日、稲葉恵治君が肝硬変で亡くなりました。64歳でした。鎮西高校の同級生で生徒会で一緒に学校新聞のマネごとをやったりして意気投合、よき相談相手でした。
 稲葉君は熊本商科大商学部、慶応義塾大英文科(通信教育部)と2大学を卒業する努力家でした。尚絅高校に31年間勤務し、教頭で定年を迎えました。定年を前にこう真剣に打ち明けました。
 「自分は教頭の役目がら高校に適合しない生徒を退学させてきたが、教師として大変心残りである。その生徒の個性が現状の制度には合わないのかもしれないが、生徒に合った指導をすれば立派な社会人になれるはず。定年後の自分の余生をその子供たちに捧げたい」
 天職の教師人生を命尽きるまで全うしたいと訴えるいちずさに感動しました。同志として参画し平成16年、熊本市の旧本店跡に水前寺高等学園を設立しました。学園は中学卒業の子や高校中退を余儀なくされた子を受け入れ、通信制高校連携科、高卒認定試験受験科などがあります。

「胸を張って堂々と歩け、鍬[くわ]も持ってもいいペンを持ってもいい働いて飯を食える人間になれどんな偉い人間の前でも人間が人間を恐れることはない鑿[のみ]を持ってもハンマーを持ってもいい卑屈で媚[こ]びを売る人間になるなあたりまえにものが言える対等に相手になれる人間になれ」

稲葉君の遺志を継いで学園長を務めていますが、彼の思想は学園に生きています。今年も41人の卒業生が巣立ちました。
 また彼は昭和45(1970)年、外務省の派米農業研修生のグループ長として渡米(2年間)しました。当時米国にいた現知事の蒲島郁夫さんと接点がありました。後にハーバード大で博士号をとり、筑波大、東京大教授などを歴任した蒲島さんを自分のことのように喜び、自慢しておりました。
 同窓の村上寅美県議にも亡くなる直前まで「蒲島君が知事になってくれたら熊本のために頑張りますよ」と懇願していました。元気でいたら蒲島知事の活躍をどんなに喜んでいただろうと思うと、残念でなりません。