第三十九話 「母の長き歩みを讃えて」

第三十九話 母の長き歩みを讃えて

孫(米澤房朝さんの長男博文さん)を抱く米澤さんの母ツジさん。62歳ごろ

平成24(2012)年11月11日、母が100歳で天寿を全うしました。母は39歳の時、父が43歳で亡くなり、女手一つで私たち4人を育ててくれました。
 働き者の母は寡黙で強くたくましく、貧しさの中にも精神的豊かさを求めて生きてきました。「一生懸命働いていれば、何とかなる。必ず良いことがある」と私たちに繰り返し言い聞かせ、働く背中で手本を示してくれました。
 小さな部屋で質素な暮らしでした。が、5人家族は強い絆で結ばれ、今も母の教えを守り、それぞれ幸せに暮らしています。大勢の孫やひ孫へと命がつながれていることも、すべて父母のおかげだとあらためて感じています。
 戦前には珍しい恋愛結婚だった母は、かの地で父と久方ぶりの再会を果たしているでしょう。父の早世でしたくてもできなかった身の回りの世話をやき、父も母の長い長い頑張りを認めて、夫婦仲良くやっていることでしょう。
 母は82歳の時に転倒し、骨盤につながる大腿[だいたい]骨[こつ]頚部[けいぶ]を骨折しました。それから入退院を繰り返し、92歳で寝たきりになりました。寝たきりになるまでは、車椅子で出掛け、郷里合志市の田舎の変わりぶりを見て回るのが唯一の楽しみでした。
 寝たきりになると、家族が見舞いにくるのを待ち遠しくしていました。母にとって、病院や高齢者施設の設備の豪華さは関係ありません。
 それよりも家族がそばにいることが一番でした。母にとっても家族にとってもありがたいことで、人がいるだけで表情が豊かになりました。最新の設備、立派な建物ではありませんでした。
 このごろの病院や高齢者施設は外観も内装もホテルのように立派です。しかし、人員が不足しているようです。ハードの充実よりも誰かがそばにいること。人には人が一番だということを、母のおかげで気付かされました。
 母が骨折して入院している時、「もう働けないから死にたい」などと申しました。冗談交じりに「100歳まで生きて、ころっと死んだら」と言ったら、「それではそうしよう」と返してきました。それを守ったのでしょうか。本当にちょうど100歳で亡くなりました。